| 今月の画家 | キスリング(1891〜1953) | ||
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1891 ポーランドのクラクフにユダヤ人として生まれる 1910 パリに出て、モンマルトルで画家として本格的に絵を描き始める 1912 ピカソ、ブラックらの活動拠点モンマルトルのバトー・ラヴォワールに移り住む 1912 サロン・ドートンヌとアンデパンダン展に出品 1916 フランス国籍取得 1953 南フランスの港町サナリーにて没 キスリング略歴↓ |
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| 今月展示 | トンテントン展〜村岡 一 | ||
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| 今までの展示者・・・ | |||
山元七次記念ギャラリーを彩る絵画たち
新病院には山元七次記念ギャラリーがあります。前理事長自身が作成した陶器だけでなく収集した絵画をギャラリーで楽しんでもらおうと企画を進めています。ギャラリーは玄関入り口を入るとすぐ左手にあり常設の陶器/絵画/伊万里の陶芸家の作品などの展示に加え、シャガールをはじめ有名な西洋画と東山魁夷による日本画などを月替わりに特別展として展示していく計画です。病院の患者様に限らず伊万里市民の方々にも心を癒してそして楽しんでいただきましょう。まず、病院で展示される作者について紹介します。
| ルノワール | 東山魁夷 | ピカソ |
| シャガール | マリー・ローランサン | デュフィ |
| キスリング | 小磯良平 | ジョルジュ・アンルリオー |
| レオナール・フジタ | モーリス・ユトリロ | モーリス・ド・ヴラマンク |
| エンネル | 織田広喜 | ベルナール・ビュッフェ |
| 田崎廣助 |
| ベルナール・ビュッフェ top | |
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フランスの画家1944年国立美術学校に入学する。ナルボンスに師事47年の初個展でその鬼才を認められ、アンデンバルデ展、サロンドートンヌに出品、1948年ジャンヌパンチュ−ル賞とクリチック賞を受賞した。その後「受難」「戦争の恐怖」「サーカス」等主題を決めて、個展を開いている。彼の作品はドラマティックな調子と赤裸々な具象表現の激しさゆえに「ミゼラピリスム悲惨主義」と称された。これは表現主義の版画作品から生まれたもので、とりわけ黒い線の強調と色彩の従属的使用といった、点においてはグリュ−ベルの影響を受けている。エッチングもよく知られている。1974年アカデミーフランセ−ズ会員に任ぜられる。 |
| ルノワール top | |
| 花 (1841年〜1919年) |
まずはフランス印象派の巨匠であるルノワール。1841年2月25日(江戸時代;天保の改革の頃)貧しい仕立て職人の家に生まれ家計を助けるために焼き物の絵付けをしたりしていましたが、社交界の肖像画が大変気に入られ注文が殺到、今までにない明るく性格を表すような肖像画に社交界で大変名声をはくしました。 パリのオルセー美術館に飾られている「田舎のダンス」と「都会のダンス」にみられるようにタッチからその人物の性格や当時のファッションがよくわかります。田舎のダンスのモデルはルノワールの奥さん(アリーヌ)となり、都会のダンスの女性(シュザンヌ)はその頃ロートレックなど多くの画家と浮名を流したモデルさんでしたが画家にもなりそしてユトリロの母となった人物でした。 そのルノワールも印象派での限界を感じ1881年イタリアへの旅に出ました。フィレンツエでラファエロの絵をみて開眼し、鮮やかに人物の輪郭が戻りその後の絵に大きな影響をもたらしたそうです。 しかし晩年はリュウマチにかかり筆を手に結びつけて絵を描く余生で最後までアリーヌがつきそったそうです。そのような思いでルノワールの絵を眺めるとまた少し違った見方ができるかもしれません。 絵画好きの人たちに勧めたいテレビ番組として土曜日の「美の巨人たち」(エプソン提供)、日曜日の「美術館紀行」「新日曜美術館」(NHK)があり興味を倍増してくれます。 1876年ムーランドギャレット(ルノワール)1892年 ピアノを弾く少女たち1892年 踊るジャンヌアブリル(ロートレック)1877年スター、踊り子(ドガ)1869年 バルコニー(マネ)なんとなくモンマルトルでの交友関係がわかるような気がしますね。 |
| 東山魁夷 top | |
秋晴れ![]() 本名:新吉 (1908年〜1999年) |
戦後を代表し四季折々の風景を描いてきた日本人画家に東山魁夷がいます。戦争前はドイツ留学を果たしたものの父の病状悪化と共に27歳で帰国。しかしその後平和な日本は続かず日中戦争、太平洋戦争と戦争の合間で翻弄された生活を送りました。1972年にも白馬を描いた有名な風景画が出現しますが、その頃の東山個人の苦悩と不安そして平和への祈りを込めて白馬が登場したのでしょうか。絵の中に馬を描いた画家としてシャガールの絵があり互いの背景を思うとユダヤ人であったシャガールの苦悩と何か相通ずるものがあるような気もします。1945年には太平洋戦争の敗戦、そして愛する家族兄弟の死に直面し「孤独と哀しみ」から巡礼のたびにでます。1947年に描いた「残照」以来、風景画家を決意し「描く事は祈ることである」との思いで描き続けてこられました。 1960年にはドイツ・オーストリアを訪問して留学した30年前と同じ風景がそこにあったことに大変感動したそうです。 そうこうするうちに1972年(64歳)白馬が絵のあちこちに出現。ちょうど高度成長期と重なると同時に風景を追い求める中で風景画家であったがために環境の破壊など厳しい現実と対峙し心の悩みと白馬に祈る気持ちとを描いたのではないでしょうか。モーツアルトを恋した画家でもありそのピアノ曲を聞きながら白馬が駆け巡りその背景の森がオーケストラであるかのような感慨にふけるのも面白いのではないでしょうか。 |
| ピカソ top | |
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ピカソは一八八一年、スペインのアンダルシア地方マラガ市に生まれました。父はサンテルモ美術工芸学校の教師のドンホセルイスプラスコです。ピカソは長男だったのです。ピカソは絵を父から指導を受けました。ピカソは天才的でありました。長じて父は自分のパレット絵筆を全部ピカソにあたえて、「私はもう絵は書かない」と云ったそうです。ピカソは何のためらいもなく、画家としての道を歩きはじめたのでした。九一年に及ぶピカソの長い生涯が、一方では豹変の画家といわれ変化と発展をくり返し、一つの様式に安住することはありませんでした。内面では一生を通じ、少しも変わりませんでした。常に自分を取りまく生涯でありました。彼が描く女性は、彼が愛する女性であり、犬は彼の飼犬であり、室内は彼が住んでいる部屋であり、彼は彼の実生活の中の感性を最もよく表現出来る手法を追求しつづけたのであります。 二十世紀芸術をもっとも特徴づけているのがピカソであります。一般的に云って画家は、様式を一生に一つ作り上げるのが普通ですが、まれにいくつかの様式を一生の間にもつものがあっても、せいぜい青年期、壮年期、晩年期の三つに分かれるのにすぎません。ところがピカソの場合、大別しただけでも、長い生涯の間に「十」の様式を数えることが、できるのであって、これだけ変化をした画家は極めて珍しいことです。彼は最後までみずみずしく豊かで、九一才で死に至る前まで絵を書きつづけ、絵画 版画 彫刻 陶器 一生に四万点の作品を残していると推定されています。 ピカソの青の時代は一九世紀はじめ、友人の自殺が契機となって、云い知れぬ不安と幻滅が支配しました。何も信じることができなかった孤独な自己の心境を、文学的に感傷的に表現したのが青の時代でありました。作品には「貧しい食事」「アイロンをかける女」があります。 次にいわゆる赤の時代はパリの「モンマルトルの丘」に居をかまえ、オリピエと一緒にくらし、造形的な面への志向と、ロマンチシズムとがうまく合致した時代でありました。作品には「麗しいオランダ娘」「曲芸師の一家」があります。 戦後まもなく粘土をこね、窯で焼かれることに興味をおぼえ、やがて陶器に熱中するようになりました。自分で土をこねまわし彩色して、おもうがままの形を作ることができる喜びがあり、それが更に火に焼かれ予測出来ない、変化を生むという魔術性があり、それがピカソを魅了したものとおもわれます。一九七三年ピカソは夜おそく迄制作し、翌日心臓麻痺で生命が停止してしまいました。年をとればとる程多作になって、死の前迄制作に打込み、通常の人の数倍の作品を残した偉大な芸術家でありました。 |
| シャガール top | |
![]() (1887年〜1985年) |
生きる喜びで空を飛ぶシャガール 1887年7月7日白ロシアのヴィテブスク郊外=ヨースノ村のユダヤ人家庭に生まれました。父は寡黙なユダヤ人労働者で、にしんおき場で働いて いました。母は優しく快活的な働き者で他に娘8人がいました。芸術などとは全く無縁な家庭環境にあって、画家になりたいという、シャガールの望みは、 この上ないばかげた考えとして、母の仰天させましたが、叔父の支持もあり、ユダヤ人画家ペンに師事することを許されました。ヴィテブスクの町は、 暗い空の下の、素朴でつつましい○の臭いのする、平凡なロシアの田舎町にすぎなかったが「私の悲しくも歓びにあふれた町」への愛と追憶はシャガールの 心のうちに抱かれ続け、彼の芸術の永遠の源泉になったのであります。1910年からはパリに留学して絵を学ぶことになりました。当時、パリには世界中から、 若い画家たちが集まって、彼らと共にいわゆる「エコールドパリ」を形成していました。1914年一時帰国しますが、直後に第一次世界大戦、次いで、 ロシア革命が勃発したので、しばらく故国に留まります。再びパリに出たのは、1933年、1937年にはフランス市民権を得ました。22歳の時そのころ の彼は画家をめざす恋多き、繊細な青年でした。彼は生まれ故郷のヴィテブスクを離れ、当時のロシアの首都ベテルブスクで熱心に絵を学んでいましたが、 郷愁にかられて、たびたび帰郷するそんな帰郷の折二人は巡りあいました。最初の出会いの時、彼は直威する「私は新しい家を持った。そしてそれはもはや、 はなれがたいものとなった」23歳になったシャガールは、パリに出る。屈託のない彼はパリの芸術を深く呼吸する。さらに花の都パリの、のびやかな空気が 彼を色彩に目覚めさせる。「蜂の巣」と呼ばれる画家たちの共同アトリエ貧しいながらも成功を夢見る芸術家たちが集まる紛れもない楽園だった。エッチング やリトグラフなど、これまであまり手掛けたことのなかった版画にも積極的に取り組みました。自伝「わが回想」や聖書などの挿絵として制作した膨大な数の 版画は彼がこの分野でも優れた才能の持ち主であることを示しています。けれどそこもすぐ安住の地ではなくなりました。ナチスの影が追っていました。 すでに1933年ナチスはドイツにあった。シャガールの作品を彼がユダヤ人であるという理由で、すべて撤去していました。1939年一家はパリを脱 し南仏に非難しました。そして1940年パリはナチスの手に落ちました。一家はさらに大西洋を超えて、アメリカに渡りました。ニューヨークはシャガール にとってはあまり居心地のいいものではありませんでした。歴史の浅い殺伐とした大都会浮かんでくるのは故国のことばかり一家は街の喧 をはなれ、 郊外に出かけることが多くなりました。1944年パリはナチスドイツの支配から解放されました。ラジオから流れる歓喜の声をききながら、彼はかたわらの ベラとうなづきあいました。二人でパリに帰ろう― けれどそれはかなわなかった。ほどなく、病に襲われた。ベラはそのまま、帰らぬ人となってしまいます。 傷が癒えるまでにはしばらくかかりました。何をする気もおこらず、もちろん絵筆をとるのも辛かった。それでもシャガールはベラとの思い出に捧げる作品を いくつか描きあげました。そこでは悲しみの淵から浮かんでくる、深い色が彼女のまわりをおおいました。60歳になった年、彼はパリに帰りました。 この街は彼が帰ってくるのを心待ちにしていました。華やかさを取り戻した街にベラを失った傷も、少しずつ癒されていく、自分の絵に喜びを感じてくれる 人々のためにももう一度絵を描こう、創作の意欲が戻ってくる。世界の各地でつぎつぎと開かれる展覧会に彼は精力的に出品しました。65歳のとき、 彼は新しい恋人と出会いました。ヴァランティーヌブロドスキー(ヴァヴァ)が新しい人生のパートナーとなりました。もっと多くの人に喜んでもらうために、 シャガールの作品は壮大なものになってゆきました。古くからのパリのシンボルのひとつオペラ座の天井も彼の絵で飾られました。1973年長年の画業をた たえてフランス政府は陽光あふれるニースにこの画家のための美術館をつくりました。シャガールが南仏の自宅で生涯を終えたのは1985年97歳だった。 もうこの地上にはない二つの故郷はその故郷のもとに帰ったのかもしれません。芸術においても人生においても基本に愛があればどんなことも可能なのです。 |
| マリー・ローランサン top | |
![]() (1883年〜1956年) |
マリー・ローランサンは詩人アポリネールやその仲間だったジョルジュ・ブラック、ピカソからも影響を受けながら繊細な感覚と柔らかな色調で独自の画風をつくりあげた女流画家であります。一八八三年十月三一日パリで生まれました。母はポリーヌ・ローランサン、父の名は記録されていません。9歳の頃の想い出をマリーは距離はおいてはいるけれども魅力的な母親はとても口数は少なく歌が上手な人だったし、父親は時折り気晴らしに娘を教育し、勉強をみてやるのが好きな人でした。 一九〇四年、アカデミー・アンペールに学びそこでジョルジュ・ブラックと知り合い、パプロピカソ、フェルナンレジェと出会い、かなりの自画像等を描いて研鑚をつみました。1907年ギョーム・アポリネールと結婚しました。アポリネールは言っている。「彼女は快活で彼女は善良で彼女は桟智に富んでいる。彼女は小さな太陽で女の姿をした僕なんだ」その後は一九一二年には早くも別れている。非常に数多いデッサン、水彩を数に入れないでも、油彩、本の挿絵、版画それぞれ一四〇〇点八〇冊三〇〇点以上を数える作品が残されている。一九五六年パリの自分のアパートで心臓発作のため没する。七十三歳でした。遺考により白い衣装に赤いバラを手にしてギョーム・アポリネールの手紙を胸においた姿で墓地に埋葬されました。最後までロマンチックな彼女でした。 |
| ラウル・エルネスト・ジョセフデュフィ top | |
(1877年〜1953年) |
一八七七年六月三日、フランスの港町ル・アーヴルに生まれる。父はレオン・マリウスデュフィは普通のサラリーマンで、休日には教会の聖歌隊を指揮し、オルガンを弾いた。母はマリウジェニーイダモルニエです。ラウルは長男で三人の弟と5人の妹がいました。家族全員が音楽に親しむ優雅な芸術的雰陰気に満ちた家庭でした。ラウルは画家を志しました。弟たちも二人は音楽家、残る一人も画家になりました。一八九二年市立美術学校の夜間クラスに通いました。一九〇〇年、ル・アーヴル市から年額一二〇〇フランの奨学金を支給されて、パリの国立美術学校に入学しレオン・ボンナの教室に入学しました。一九二二年以降デュフィの水彩画が急激にふえました。絶えず油絵具の不透明性に心を悩ましていましたが、透明なものへの憧れが水彩を必要としたものと考えられます。水彩画は当然のことながら瞬間の勝負であります。無限のデッサンを重ね、油絵具を厚く塗りこめて完成を目指す画法では追いつかない瞬間に自己を賭ける精神がまず大事であります。若草も木々も空も海も人物も燃え立つような色彩となって音楽に捧げられる踊る喜びを謳歌している後半のデュフィ風のリズムがここには高鳴っていました。一九五三年心臓発作のため死去七五才でした。 |
| レオナール・フジタ top | |
![]() (1886年〜1968年) |
1886年11月27日東京に生まれる。父は陸軍の軍医でありました。10代後半から画家を志しました。1910年東京美術学校を卒業後1913年にフランスに留学して苦労の末パリの画壇で成功をおさめ、独特の絵肌と面相筆による線描は絶大な評価を得ました。第二次大戦中は帰国を余儀なくされ戦争画の傑作を描きました。戦後フランスに戻り、1955年に帰化して1959年にカトリックの洗礼を受け、藤田嗣治をレオナール・フジタと改名 1968年1月29日チューリヒで死去81才でした。 |
| ジョルジュ・アンリルオー top | |
![]() (1871年〜1958年) |
キリストの画家ルオー 1871年パリ・ユミコーンの動乱のさなかジョルジュ・アンリルオ−は貧しい家具職人の子としてパリで生まれました。 |
| キスリング:KISLING top | |
![]() (1891年〜1953年) |
1891年1月22日ポーランドのクラクフで生まれる。父は理髪師であった。 キスリングは父の希望にしたがってクラクフ高等学校の理科に学ぶが本人の希望により美術学校入学の準備も進める。彫刻のアトリエは満員なので、画家ヨゼフパンキュヴィッチ教授が自分のアトリエに入る様に提案して画家になることにしました。パンキュヴィッチはこう云いました。『ほかの所では美術を否定することばかりやっている。セザンヌやルノワールの国に行かねばならない。』そして1912年パリに行く。パリの洗濯船のアトリエに一時住んでいました。初めてサロンドートンヌに静物・少女の顔オデイエルヌの港の油彩3点を出品しました。それが有名なマチスとボナールの特別陳列室に一緒に展示されました。
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| モーリス・ユトリロ top | |
![]() (1883年〜1955年) |
モーリス・ユトリロは父を知らなかった。祖母とパリ郊外のモンマニーで孤独に過ごした。ユトリロは無類の酒好きで 18歳頃にはひどくなっていた。その後20年以上にわたって、ユトリロはアルコール依存症の治療のため、精神病院への入退院をくり返すことになりました。この飲酒癖こそがユトリロを絵 に導いたのでした。最初の入院のとある医者が依存症治療として絵を描いてはどうかと提案したのです。絵は少年の心を確実につかんでいきました。酒浸りの生活のなかで、ユトリロはパリの街角を描くようになっていたのでした。そしてユトリロの白の時代がやってきました。 1935年51才で結婚したモーリス・ユトリロはそれ以降パリ近郊ル・ヴェジネの瀟洒(しょうしゃ)な邸宅からほとんど外に出なかった。ユトリロはもう、かつてのユトリロではなかった。5時間も6時間も神に祈ることが日課になった。 晩年のユトリロは抜け殻も同然で妻に言われるまま、モンマルトルの絵葉書か過去の自分の作品を見ながら描き、過去の作品を繰り返すだけだった。 19世紀 ユトリロの母シュザンヌはルノワール、トゥールーズ=ロートレック等有名な画家のモデルになっていました。 ロートレックとは恋人関係にあったし、キャバレーのピアノ弾きだった作曲家のエリック・サティとは結婚の約束まで交わした。彼女の恋多き時代は 10代から30歳近くまで続いた。やがて裕福なビジネスマンと結婚。10代から晩年に至るまでユトリロのサインには必ずモーリス・ユトリロのあとに母 の名字を示すVの文字がありました。44歳の時、ヴァラドンは前夫と別れ、息子の幼なじみで当時23歳の画家アンドレ・ユッテルと再婚する。 晩年夫婦の関係が悪化してからもヴァラドンの息子への愛情は変わらなかった。病を患い、息子の将来を案ずるようになったヴァラドンは、裕福な 未亡人リュシ−とユトリロを結婚させると、まるで生涯の使命を果たしたかのように急速に衰えた。ヴァラドンの描いた絵画は、男性的と表現され ることが多く晩年まで変わることがなかった。力強い線と色遣いは、同時代の画家たちの影響を受けたようにはみえない。孤高ともいえる生き方は、 どこか息子ユトリロと重なってみえました。1938年脳卒中で倒れ死去。彼女がほんとうに愛し、彼女を本当に理解したのは、ただひと りの息子だけだったのかもしれません。母の死の知らせを受けたユトリロはその場に倒れて母の葬儀に出ることは出来ませんでした。 |
| モーリス・ド・ヴラマンク top | |
![]() (1876年〜1958年) |
フォーヴの仲間達のうちで最も「野獣」の語感にふさわしい画家を一人挙げるとすれば、それはやはりヴラマンクということになる。フランドル出身のヴラマンクとはフランドル人の意である。音楽教師を父にパリで生まれた。ヴラマンクは16歳の時自立して生活するために家族のもとをはなれ、パリ近郊のシャトゥー(城)に住みついた。彼は堂々たる体?と激しい気性の持ち主で、しばらくの間 機械工として勤めました。そのうち競輪の選手となって生活費を稼ぎ、18歳で結婚し、やがて自転車競技から音楽に転向し、ヴァイオリンのレッスンと演奏活動によって家族を養った。常に不安と焦燥感に駆られていた。 |
| 小磯良平 top | |
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1903年7月25日岸川文吉、こまつの次男として神戸市に生まれる。八人兄弟の第四子でありました。1922年(19歳)東京美術学校、現在の東京芸術大学西洋画科に入学しました。同級生には猪能弦一郎、荻須高徳等の有名な画家がおり卒業後上杜会を結成し今日に至っている。良平は青山の小寺謙士(祖母の甥)のちの神戸市長のもとから通学しました。1925年22歳の時第六回帝展に「兄妹」が初入選しました。父文吉がなくなり遠縁の小磯吉人、英の養子になり、小磯の姓を名のる。23歳の時第七回帝展に「T嬢の像」が入選特選になる。卒業制作として「彼の休息」に着手 3月東京美術学校西洋画科を首席にて卒業した。竹中郁(文学者)とフランスに留学し「肩掛けの女」を製作しサロンドートンスに入選した。27歳の時に帰国して広大な小磯家の庭にアトリエを建設し、本格的に画家活動をはじめた。第十三回帝展で「裁縫女」が特選になり政府買上げになった。1932年萩原貞子と結婚し神戸教会で式をあげ二女をもうけた。1953年東京芸術大学教授に就任した。1983年文化勲章授章した。1988年12月16日(85歳)で逝去する。彼の家はキリスト教の信者で、家庭の中にはクリスチャンホームらしい雰囲気があり、彼も熱心な信者であった。養母小磯英さんは、ほんとに堅くきびしい人だったようでそうした環境の中でクリスチャンとしての品性がつちかわれ、それが作品の上にもよくあらわれている。彼の作品は一般に親しまれ、絵のもつ清らかさや気品の備わっている有様がひたひたと伝わって来る様である。 |
| エンネル top | |
| 1982年3月5日にベルンビエに生まれ、1905年7月23日に没す。裸婦や、チチリアン風髪形の少女像を得意とする。 グッツビラー次いでガブリエルゲランとともに、ストラスブールで絵画を学ぶ。1847年パリ移住パリ美術学校入学、1858年「アベルの体をみつけるアダムとイブ」でローマ大賞、1863年パリサロンへデビューと同時に入賞、これより晩年まで数多くの賞に輝いた。パリのエンネル美術館には400点近くの作品が所蔵され、フランス各地の美術館でもそれぞれに所蔵されている。 | |
| 織田広喜 top | |
| 描く対象はほとんど人物で、いずれも都会的な哀愁とアンニュイな雰囲気を漂わせる女たち。近年は東京の風俗などをテーマにして女の生態を描出しながら、絵画空間の"間"に夢のある叙情的光景を創り出し、純真でナイーブな感性、豊かな詩的想像力、絵に対する限り無い情熱が、亜流を許さぬ独自のスタイルを形成している。 | |
| 田崎廣助 top | |
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| Yamamoto Memorial Hospital | |
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